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Cotents of Winugoya (http://winusama.hp.infoseek.co.jp)
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 職場から「ホントに患者を診れる,見れる医者」と言うのが徐々に去っていき,「患者を診る,患者を見るスタッフ作りのできる医者」と言うのも去ってしまってる現状。
 日頃仕事をしていてスゴく「患者不在の医療」を感じてならない…。これは…もしかしたら…ウチだけの問題ではないのでは?…とは思い始めてるんだけど…。
 「心」ではなく「体」の病気であっても,「心」は潰れそうになる。「心」がどういう状態になるかによって患者の今後も大きく変わるんじゃないかと常々思っているんだけど…。

 ここ最近…仕事をしていて感じたこと…自分が努めてきたこと…。
 「患者の訴え」がちゃんと分からない医者。身体的な問題は「そう言う症状ですから」で片づけ,せいぜい対症療法が限界。心理的な問題は「そうなるもんですよ」くらいで,せいぜい抗うつ剤・抗不安薬・入眠剤を処方してはぐらかす。「診断して,それに基づいて薬物処方して,リハビリオーダーして」と言うだけで,「患者を治療する」という行為になるのか非常に疑問。
 「患者の訴え」がちゃんと分からない看護師。同じように身体的な問題は「そう言う症状」ってことにして,不便を感じていることは介助・代替する。心理的問題は良くて「大丈夫です」の言葉が出るだけで「あの人はこういう人だから」と言う「人格推断」をして,問題になりそうなことを回避するだけ,触らないようにするだけ。「看て」「護って」と言う「看護」と言う言葉の意味がどうなってるんだろう…それで「患者の看護」ってことでいいのか疑問。「不便」があれば強引にでも「介助」いや「代行」を行うのを見る。
 それで…「検査技師」は「診断」「病因究明」「治療方針策定の根拠」「治療効果判定の根拠」のために検査をする…。
 資格上,「診断」はできないし「患者に告知」と言うことはできない。だから…本来は「検査するだけ」なのである。
 んで…「それで良いのか?」ってのが疑問なわけで…特に欧米で進んでいるような「チーム医療」を意識した場合には「検査するだけ」では事足りない。まして専門医が欠けている病因では「検査所見=診断」となってしまうので「診断する」つもりで検査しなければいけない。
 「検査」だけで考えるなら,「症状」と「所見」が合致するか見ればいい。そのほとんどは「計測値」や「算出値」や「パターン判定」で済む。そして検査さえできればどうでもいいのである。
 検査技師は「医者の検査依頼」に基づいて「検査」し,医者は「所見」を見て「診断」し,看護師は「診断」や「訴え」に基づいて「看護」する。
 でも…どこかでそれはクロスオーバーしていると考えているのはどうなんだろう…? 自分だけ?
 こんなコトを考えたのは…ここ1週間くらいで検査が集中していたある患者に起因する。
 右脳の梗塞で,左麻痺があり,左上肢のしびれと痛みを自覚しており,そのつらさで参っている患者。体交に限界があり,同じ姿勢を保つことは困難。単純にそれだけを聞いた時には「体位変換は困難で,姿勢持続も困難で,訴えがやたらと多い」と言う扱いになってしまう。そしてそれをもとに,「左側が利かない」から強引に介助され,苦痛の訴えがでないように限界点を決められているように感じる。
 「検査をする身」にとって,体位変換が容易でないこと,体位持続が困難であること,と言うのは非常に都合が悪いものである。
 では…「その不都合」を理由に「検査困難のため詳細不明」「検査不良のため不適所見」と言う結果を単純に返すだけで良いのか? と…。
 ホントに患者を思うならば,「ある程度完全に近い検査をしなければならない」「患者の苦痛を軽減した上で検査しなければならない」と言うのが本来筋だと思ってる。
 「完全に近い検査」をするためには,患者が苦痛に達する限界一歩手前までの検査態勢を整え,「検査の意議」を理解してもらった上で検査しなければならない。「苦痛を軽減した上での検査」をするためには,どの程度で苦痛を感じるのか? どの程度まで耐えうるのか? どういう苦痛があるのか? と言うことを把握しなければならない。
 必然的に,患者の訴えを全て聞き,できるだけそれに沿うことになる。検査中は随時患者状態を把握し,状態を確認する必要がある。
 そこには「こう言う患者なんだ」ではなく「こう言うのが辛いんだ」「これがちゃんと説明されてないんだ」と言うことを理解していく。そのために,限られた時間の中で,些細な訴えも漏らさずに把握しなければならない。そして「院内生活の全て」が「リハビリ」に通じることを考えれば「効率優先」を考えて「安易な代行」を行わずに,「支援」「見守り介助」も必要になる。
 こうすることで,患者の訴えがひしひしと伝わってくる。この「訴え」を事後分析すると「いかに主治医が患者を把握してないか」「いかに主治医が対症療法ですましているか」と言うのが分かり,「いかに看護師が対話をしていないか」「いかに看護師が人格推断をしているか」と言うのがよく分かってくる。
 一見,「できないこと」がたくさん見える患者でも,教えて促すことで,最小の介助でなしえることがたくさんある。そこで患者が自信を持ったり前向きになったりする。一見,わがままで粗暴に見える患者でも,それは「自分の状態を分かってもらえてない」だけであって,よーく話を聞けば「何が辛くてどうしたいのか」「なんでこんな検査をするか分かっていない」ということが分かってきて,それにうまく沿うことができれば,再発予防・病因究明・関連性を説明できれば,ある程度は納得して,努めてこちらの要望に応えてくれる。そうすると,主治医・看護士が驚くほどの状態で検査ができ,ほぼ完全な検査がなしえる。
 そう言ったことで,先述の患者は,「できるだけの体位」をとり「できるだけの持続」を心がけ,「自分の症状」と向き合い,「リハビリへの意欲」を高め,「できるだけ自分でやろうとする姿勢」が見られた。
 振り返ると…「主治医からはっきりした話がなくて」「主治医から聞いてません」「看護師が何も言ってくれなくて」「体位を変えたり車いすとベッドの移動は痛みをこらえて任せてます」と言う訴えは非常に多かったりする気が…。
 これだけで,世の中の医師や看護師を攻めるつもりはないけど,少なくとも自分の身近では「患者自身がいかにおざなりにされているか」というのを感じてならない。
 ウチの検査室では,治療方針に影響が出ず本人に負担が生じない程度の説明や告知をし,どこまでできるかを見極めた上で見守り・手伝いをしつつ試行錯誤させてみているつもり。
 だから…同じようなことは一緒に検査しているスタッフからもよく聞くし,それらの情報を共有しながら検査を進めてるし,主治医・看護士に報告・進言をしているつもり。
 気が付くと…「検査室に入ってから検査室を出るまで」を検査枠一杯に使っている。これでは検査可能件数に限界がでるものの,「患者本位の医療」をするためには換えられないわけで,「完全に近い検査結果」を得る上では必須である。
 「病院」と言う場を「修理工場」としないために,どの医療スタッフもホントは限られた時間の中で労を惜しむことなく努力が必要なんじゃないだろうか…。

 退院後に外来フォローアップで通院している患者がたくさんいます。フォローアップ検査で出会うたびに「身体症状」だけではな「近況」を聞くことができ,「退院できたことを喜んでいろんなことができるようになったことを喜んでいる様子を聞くことができます。病院のすぐそばに済んでるので,散歩をしている姿を見かけることがありますが,院外でありながら会話を交わすことや会釈を受けることがあります。
 スタッフにとっては,「何十・何百の患者の中の一人」かも知れませんが,患者にとっては「ほんの何人かのスタッフの一人」だったりするんですね。「普通にすること」が本人には「特別なこと」だったりするんですね。
 そんなことを…ちょっと考えてみました。
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1975/12/20
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恋の下手な恋愛内科医
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▼ 横浜在住,34歳。職業は炎の妄想族 兼 恋のヘタな恋愛内科所属。ほかプロフ参照。よろしくです。
▼ メンヘル患者,職場しがみつき,日々忍耐系
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